黒猫翁の言いたい砲弾

新聞やテレビを賑わしていることについて思ったことを書いていくページです。公開の備忘録?ですかねw

藤井聡氏に対する維新の党の対応ぶりを分析しました(2)

※ 事実関係(数字など含む)に若干不正確なところがあったため少しだけ修正しました(3/16)

 藤井京大教授が「7つの事実」を公表して以来、維新の党――「大阪市長」とこれまで書いてきましたが各方面への抗議文書の発信者名が「大阪維新の会」から「維新の党」に変わってきましたので、今後はこの固有名詞も使います――は論理的な回答を一切打ち出さず、ひたすら論点を逸らし続けています。今回は維新の党が勝手に設定した「論点」が正当な主張なのかどうか検証してみたいと思います。

 

◆「藤井氏のヘドロ発言は公選職である大阪市長かつ政党代表に対する人格攻撃であって許しがたい」
 これについては記者会見でも何度も発言していましたが、2月6日付で京都大学の山極総長宛てに出した「大学の見解を問う文書」がわかりやすいです。要約すると「大学教授が政治家を厳しく批判してもいいが、公選職である市長に対する藤井氏のヘドロ発言はその範疇に入っていない。京大としてしかるべき対応をしない場合は国会の場で追及させてもらう。国立大学は国民の税金である交付金を530億円もらって運営していることを肝に銘じよ」――という文書です。
 まず変だなと思うのはヘドロ発言が不適切であるとした理由が付されていないことです。根拠なしに何でも断定できるのなら議論で勝てない相手は存在しないでしょう。あるいは「公選職」に対する批判には一定の限度があるとでもいいたいのでしょうか? 「公選職」というのは選挙で当選したことで得た職業のことで首長や議員全体を指しますが、彼らがそんな特権を持つとする条文はどこにもありません。中華人民共和国なら話は別ですがここは日本です。
 翻って藤井氏の主張を見ると、同氏がなぜ「ヘドロ的」という表現を用いたか、ご自身のサイトで実に明確に説明されています。

なぜ私、藤井聡は『橋下徹』という一政治家に対して、ヘドロチックという徹底批判を『2年以上昔』に展開したのか。|藤井 聡

 藤井氏の説明は要するに、そもそも橋下市長が過去の著作のなかで「政治家を志すということは権力欲・名誉欲の最高峰である」と主張していたことを挙げ「ヘドロ的」というのはこうした主張に対する風刺的表現である――というものです。根拠がはっきりしていて普通の感覚として納得できる理由です。一般常識を疑われるような考えを表明している政治家に対して真正面から批判することは、(維新の党の文書でも書かれているように)十分正当な行為の範囲内であり、「不合理な人格攻撃」という指摘は当たらないでしょう。維新側が藤井氏の見解に対抗するためには過去の著述の記載内容を前提とした論理的な反証が必要で、それができなければ彼らの主張は根拠のないデマゴーグといわれても仕方がありません。


 ちなみにひとつ指摘しておかなければならないが橋下市長の罵詈雑言の件です。市長は公開の場で、学校教育の業に携わる藤井氏のことを「バカな学者」といい「小ちんぴら」と表現したのは否定しようのない事実であり、新聞テレビが大々的に報道したことによって不特定多数の人間に広範に流布されました。これは色んな意味で強烈な人格否定の言葉であり風刺描写だったなどという言い訳はまず認められないでしょう(名誉毀損罪が成立するかもしれません)。こうした発言は「公選職」に携わる人間だから許されるということはなく、道義的にはむしろ逆により強く糾弾されるべきかと思います。少なくとも藤井氏の「ヘドロ的」という表現を問題にするのであれば、自らの発言についても何故こう表現したのか?――明確な根拠を示した上での説明が必要です。これは、どっちもどっちだね・・・という矮小な仲裁話ではなく非はあきらかに橋下市長にあると思います。にもかかわらず「人格攻撃」をしている人間が「人格攻撃」をされたと抗議する姿は、どこか韓国の政治団体と似ていて、ウーンと首を傾げてしまいます。維新の党はもっと一般国民の視線に注意を払う謙虚さが必要ではないでしょうか。

 次に、京大は国立大学で税金から530億円もらっていることを肝に銘じろ・・・というくだりですが、維新の党国会議員は税金から、歳費(給料)を月130万円、文書通信交通費が月100万円、立法事務費が月65万円、期末手当で年635万円と、年間4200万円もらっており、政党助成金約4500万円/人(=日本平均)と合わせると一人当たり年間8700万円も税金を受け取っている存在です。超特権階級ですね(笑)。党全体としての税金依存度は2013年分の政治資金収支報告書で計算すると7割弱程度です。一方京都大学運営費交付金は560億円ありますが教授職は1000人以上いますので一人当たりの交付金は単純計算で年間5~6千万円になります(これを教授の下に設けられた研究室の人件費や運営費に活用します。大学全体の組織運営費は相当大きいはずですが保守的にゼロとしました)。京大全体の税金依存度は4割程度です。国立大学というのは授業料などを低く設定している分交付金をたくさんもらっていることは事実ですが、大学側からすると、5割以上多額の税金を受け取り、運営費を相当割合税金に頼っている政党から「君らは税金もらっている身であることを肝に銘じろ」といわれてもピンとこないでしょう。やはり足元が見えていないような気がします。

 最後に京大の山極総長からの返答(2/18付)は次のようなものでした。

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藤井教授の発言は、本学の職務行為として行われたものではなく、職務外に個人の表現活動として行われたものであり、本学としての見解を表明することは、差し控えたい

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 少し解説が必要かもしれません。

 国立大学の教職員は昔は国家公務員であり、国家公務員法人事院規則が適用され、その行動には相当の制限がかけられてきました。しかし財政削減の流れで2004年に法人化され、教職員はもはや国家公務員ではなくなったことから、その労働条件や服務規定については各大学法人があらたに定めた就業規則に準拠することになっています。要するに普通の民間企業と同じになったということですね。もちろん教育機関ですから「教育基本法」が厳格に適用され、その法律の限りにおいては国立大学法人は昔どおりの「国」とみなされて同じ役割を果たす義務が存続されています。いわゆる“みなし公務員”とされる部分であり、学校法人(いわゆる私立学校)よりも義務的な条文が多くなっています。
 さて大学の当局が教職員の服務管理を行うときにバイブルとなるのは、一般企業と同様、就業規則あるいは服務規程です。これらに書かれた条文に抵触しているかどうかを判断することが大学当局の役割であって、たとえば大学の学長が独善的な考えでもって勝手に職員を処分することはできません。今回の件で京大の山極総長がチェックしたのは次の2つの条文ではないかと思われます。

 (1)教職員は勤務時間中職務に専念し、職務とは関係のない行為をしてはならない
(2)職場の内外を問わず、大学の信用を傷つけ、その利益を害し、又は教職員全体の不名誉となるような行為をしてはならない

  さて藤井氏の活動を考えると、まず勤務時間のことですから(1)には抵触しないことはあきらかです。勤務時間外における同氏の行為は「個人」の自由であって大学当局が管理すべきものではない――これは至極真っ当な判断で誰も否定することはできません。ただし(2)の条文で、職場の内外を問わず、勤務時間外であっても(←これは就業規則の下の倫理規程に書かれています)大学の信用を傷つける行為をしてはならないとされています。いわゆる「信用失墜行為」というもので、よく耳にするのが飲酒運転による人身事故でしょう。京大当局は(2)についても問題なしと結論しましたが、そもそも個人の言論活動のなかで比喩として用いた表現が教員の信用失墜行為として取り上げられた事例はなさそうです。なお信用失墜行為というのは橋下市長の得意分野で、自らが率いる(言うことをきかない)大阪市職員にそれが適用されないかどうか執拗なほど事上げしているのは周知の事実です。


 実をいうと信用失墜行為に関しては本来は大阪市長本人のほうが引っかかる可能性が高いのをご存じでしょうか。上述した「バカ学者」「こチンピラ」発言をはじめとした「反復しての侮辱(あるいは名誉毀損の可能性のある)行為」です。反復しての行為は法律では非常に重要視されます。たとえば自分の家の前に毎日ちょこっと自家用車をとめていただけで車庫法に抵触して通報されるのが典型的な例ですね(=反復しての車庫代わり駐車)。また、ここ一連の市長の記者会見やそれを契機とした多くの支持者による悪意のある書き込みによって藤井氏という個人の社会的評判が著しく毀棄損されている――こうした状態を考えると、大阪市長及び維新の会の行為は総合的に見て一個人に対する不法行為になっている恐れが高く、たとえ結果的に不法性が成立しなくても大阪市に対する看過できない信用失墜行為になり得ると思われます。たとえば横須賀市には市長及び副市長の服務(倫理)規程が定められており、信用失墜行為の禁止が明記されています。大阪市でもこれがあれば服務違反で懲戒の対象となるでしょう。ところが同市にはありません。

 多くの地方自治体では「政治倫理条例」が定められていて市長の収入の公開などが義務付けられていますが、その中に今回の件に適用されそうな政治倫理基準が盛り込まれているところがあります。

市長及び議員は、市民全体の奉仕者として品位と名誉を損なう行為をしないこと

という条文です。大阪府内の市では東大阪市和泉市がそうです。このルールのある自治体の長は、これに抵触すると条例違反となりますから「品位と名誉を損なう行為」に対して非常に敏感になります。これがあれば当然テレビの記者会見などの発言には当然気を遣うでしょう。ところが大阪市には上述の信用失墜行為の規定と同様、同種の条文はまったくありません。橋下市長の姿勢が常に強硬なのはこれが大きな理由なのかもしれません。
 もちろん「自治体の長の品位の所持」とか「住民に対する直接的な説明責任(対住民直接答責性)」などは欧米では当たり前のことで日本でも法制化の流れにありますから、大阪市長も当然気にしているとは思いますが、少なくとも今の状況では市長のやりたい放題なのかもしれせん。法律でその言動がガンジガラメにされ、さらに公選の特別職市長にあら捜しをされている大阪市の職員たちのことを考えると、「気に入らなかったら選挙で落とせばいいじゃないですか?」と嘯く市長の姿は民主主義としていかがなものかと思います。

 

◆「文句があるなら公開討論をしようではないか。それを受けないのは藤井氏に自信がないからで言論の内容がデタラメだからだ」
 少し前の記事にも関連することを書いたと記憶していますが、若い人に一番支持されやすい主張です。喧嘩を売られたら買わないのは自分に自信がないからだ――年齢が下がるほどこのような考えにとらわれがちですが、大人でこんなことを本気で思っている人は滅多にいないと思います。社会人の世界では売られた喧嘩を買った人は売った人同様負けるのが通常です。ほぼ100%両成敗にされてしまうからですね。藤井氏が普通のサラリーマンであったとしてもこうした煽りにおいそれと乗ることはできません。さらに信用失墜行為の問題もあります。なぜか市長がこれで懲戒されたことはほとんどありませんが、普通の企業や大学では結構実例があることだからです(大半は依頼退職となって表沙汰にはなりません)。特に「市長VS在特会」のような流れに故意にもっていかれ、大学の名誉が傷つけられるような事態になれば藤井氏としては後々不利益を蒙る可能性があります。
 「議論」という言葉は日本社会でもよく使われます。ですが本当の意味で議論しているのかと問われると必ずしも建設的な議論になっていない場合がほとんどだと思います。今はどうか知りませんが昔(30年以上前?)はアメリカなどでディスカッション・ゲームみたいな催し物がたまにテレビで中継されていました。司会者から本当にくだらない(笑)テーマが設定され、とにかく相手を言い負かせば勝ちというゲームですが、そこには日本人にはとても信じられないような卑劣極まりないテクニックが山ほどあって、それらを駆使して相手チームを罠に落としこみ沈黙に追い込まないと勝てません。こんな「お笑いディスカッション」を橋下市長が本気で望んでいるとしたら民意を反映していると胸を張る公選職の名前が泣こうというものです。
 大事なことは「建設的」かどうかです。建設というのはお互いが協力しないと成り立ちませんが、どちらか一方だけでも協力的でなければ最終的な成果である「建設物」を得ることは絶対にできません。ということはどういうことか?というと、最低限「怒っている相手」とは絶対に「建設的な議論」はできないということです。怒りを有する相手からは協力的な関係は生まれませんから当然のことだと思います。翻って維新の会の対応はどうかといえば、記者会見のみならず文書においても非常に攻撃的な書き方をしています。つまり「怒って」いるか、あるいは怒っているフリをしています。こういった相手とは建設的な議論は不可能とするのは自然な判断だと思います。

 逆にこれが可能な環境が整えば議論慣れしている藤井氏はおそらく公開討論でも何でも受けるかもしれません。もちろんそうなれば知識と論理とその用い方が自らの武器になりますからそれこそ頭脳と頭脳の純粋な戦いになります。「論点逸らし」などのくだらないゲーテクを使おうとした瞬間にレフェリーから指摘され沈黙を余儀なくされるでしょう。藤井氏の“どうしてもやりたいのなら相手が冷静になったとき――そして時間無制限でやりたい”という発言にはこうした底意があるのだと思います。こんなガチな頭脳勝負を前提としたとき果たして大阪市長は公開討論を受けることができるでしょうか? (黒猫翁)

 

【お知らせ】次回は最近市長が指摘している「中立」について書きます。