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黒猫翁の言いたい砲弾

新聞やテレビを賑わしていることについて思ったことを書いていくページです。公開の備忘録?ですかねw

藤井聡氏に対する維新の党の対応ぶりを分析しました(4)

 3月6日に維新の党名義で京都大学山極総長に対して再度文書が発出されました。市長の新しい論点です。(怒りながら書いたからだと思いますが・・・)公式文書のわりには文章が継ぎ接ぎで論旨が非常に分かりにくいので、噛み砕いた形でご紹介します。
原文はこれです。

https://ishinnotoh.jp/activity/news/2015/03/09/20150306_news.pdf

◆京大総長への2番目の公式文書(FROM維新の党)
「藤井教授の「(自称)中立」の意見を拝聴したいので、同教授に対し、維新タウンミーティングに出席するよう大学総長として指示せよ」
【理由】
(1)彼は大阪都構想に反対している自民党の集会などで何度も講演を行っている。「中立」を公言しているからには維新が主催する集会を例外にするのはおかしい。

(2)藤井氏は「肩書き」を名乗り「学者として」の所見を流布している。こうした場合、外形標準説によれば「その組織を代表する人」として見なされ、その活動はもはや個人の活動ではない。(注:橋下市長は2/22の党大会スピーチで同内容に触れています)

(3)~いうことは藤井氏の活動は組織(=京大当局)の活動ということであり、彼の活動はイコール「職務」の一部ということに他ならない。組織は同様の「職務」を藤井氏に対して指示することができる。

******
 かなり勝手な意訳で恐縮ですが順番に考えてみたいと思います。

(1)要するに「中立」と公言しているなら都構想賛成派の集会にも反対派の集会と同様の扱いにせよ、ということですが、前回の記事でも述べたように藤井氏は協定書案には明確に「反対」であり、中立を公言したことはありません。ですのでそもそも維新の党の主張は的外れということになります。

(2)外形性については、昔小泉総理の靖国参拝が公人か私人かという(ある意味くだらない)訴訟があったのでご存じの方も多いと思いますが、要するに「職務外の行為でも周りの人から見て職務遂行中と誤解されても仕方のない外見上の特徴があれば職務とみなす」という考え方です。たとえば社用車を無断で乗り回していた社員の行為などがこれに当たります。訴訟などの場ではケースバイケースで判断されますが今の場合はどうでしょう? 藤井氏の大学教授としての職務は、学生の教授・研究指導及び自分の研究に従事すること(学校教育法92条)であって、性質上、職場外・勤務時間外の活動は「職務」になり得ません。どこかの大学教授が、勤務時間外に大学キャンパス以外の場所において肩書き付きの学者として講演を行ったとしても、これをもって学生の研究指導の目的で行われていると見なす人は皆無でしょう。またこの教授には通常いくばくかの講演料が主催者側から支払われるはずですが、これが職務の対価として京大当局から支払われると考える聴衆がいるでしょうか。たぶんほとんどいないでしょう。ということは聴衆はこの大学教授の行為を(当然の常識として)職務と見なしていない、ということです。外形性は成立しないと思います。

(3)外形説による「使用者責任」のことを言っているのでしょうか? これは「外形的に職務と見られる行為はその使用者(組織)の使用者責任を問うことができる」というものです。民事訴訟で個人より会社に損害賠償請求したほうがたくさんお金がもらえると思った場合によく使われます。しかし使用者責任というのは法律的に不法行為があって初めて発生する責任ですので、今回の件はそもそも成立要件・・・というより前提そのものが存在していません。
 また、「大学教授による肩書き付きの言論行為は職務の範囲内であることから、大学当局が責任を有し、その行為を指示することができる」という維新の党の解釈が正しいとすると一つ問題が出てきます。大阪府及び大阪市の特別参与に上山信一という慶応大学教授がおられますが、この方は維新のブレーン中のブレーンと言われている有名な人で、一時期大阪維新の会の政策特別顧問を務めていました。その言論活動は活発で、たとえば以下のようなものがあります。

さあそろそろ次の総選挙の準備を始めるか

大阪都構想は制度変更ではなく改革の始まり

 軽く一読頂ければ分かりますが、大阪都構想維新の党に対する礼賛に満ち溢れているといっても過言ではないでしょう。この教授は少し前に流行った新自由主義経済の推進者であるとともに、紛れもなく「維新の党」の強烈な支持者(というより創始者?)です。ここで維新の党の解釈からすると、慶応大学教授という肩書きを用いている上山氏の言論行為は外形的に職務であり、その内容についても慶応大学当局に責任があることになります。つまり、上山氏が「維新支持」の絶対的スタンスで職務行為を続けていることに対して責任ある大学側が長年にわたって何らの処置を講じていない、ということは「維新支持」を当局として認めているといわれても反論できないでしょう。ところが教育基本法14条では、
法律に定める学校は、特定の政党を支持してはならない
と定められています。法律に定める学校にはもちろん学校法人である慶応大学も入っています。これは慶応大学が法律上「政党中立」を義務付けられているにもかかわらず、その被使用人である教職員が職務行為のなかで特定政党の支持をしていることを事実上認めている構図になりますので、普通に法律違反になるでしょう。橋下市長と維新の党の外形説の主張は自らの理論的支柱ともいえる存在の行動を完全否定してしまう特大ブーメランになっているのではないかと思います。

 さて結果的に藤井氏はタウンミーティングでの講演を断りました。その理由として大阪維新の会でネット公開されている説明資料に事実の捏造を疑わせる記述があったからとしています。本当だとすれば一人当たり年間1億円近くの国民の税金をもらっている公党として存亡の危機に結び付く話です。ですが、そもそもそれ以前に職務外の個人の言論活動に関連して講演をお願いするのであれば社会人としての常識をわきまえた形でやるべきでしょう。「~~という理由で藤井氏は講演すべきであり、上司として指示せよ」などという文書を送り付けること自体失礼極まりない話であり、無視してもいいくらいのレベルだと思います。

 当初は対等で真っ当な議論の応酬を期待していた私としては非常に残念極まりない状況になっています。私自身は特殊なイデオロギーにはまったく関心のない一般国民ですが、「維新の党」の圧力団体(注)のようなやり口だけはちょっと許しがたい気持ちを持っています。この政党は一体なんのために活動し、そしてどこへ向かおうとしているのでしょうか。(黒猫翁)

 

(注) 今日発見したのですが藤井氏のサイトにまさにこの話題が掲載されていました。記事には全く同感です。

新潮45:『「橋下維新」はもはや“圧力団体”である』のご紹介|藤井 聡

藤井聡氏に対する維新の党の対応ぶりを分析しました(3)

 ついこの前、橋下市長から、大阪市職員の一部に対して大阪都構想住民投票関連のマスコミの取材を受けないよう要請がありました。市職員すなわち公務員の政治活動については法律上非常に抑制的ということもあり、あまり不思議に思わずスルーしてしまった方がほとんどだと思いますが、あの要請自体は非常に独善的な考えから出てきたものであって、おそらく法的根拠はほとんどないと思います。さて本題、橋下市長の(すり替え後の)新論点ですが――。

◆「中立といいながら藤井氏は反都構想の政治活動をやっており、まさに中立偽装だ」
 ここでは政治活動をやってはいけないとまでは言っていませんが、なんとなく言外に「教職員が政治活動をやっていいのか?」というニュアンスを醸し出した発言です。いわゆる教育公務員(大学等を除く公立学校の教員)の違法な政治活動が問題となっている昨今、市長発言を聞いた聴衆のなかで藤井氏のことを同列視して捉える人がいてもおかしくありません。印象操作ですね。藤井氏は大学の教職員ですが、2004年の国立大学法人の設置に伴い公務員の身分から離れています。したがって教育公務員が現在も受けているような政治活動の一部禁止の規則に縛られることなく、普通の会社員とほぼ同様、自由な政治・言論活動を行うことができます。数百億円の税金をもらっているくせに、という批判は単なる感情論であって悪質な印象操作ともいえます。
 さて、藤井氏は今は法人職員だから職務外の政治活動云々の議論は意味がないといえばその通りなのですが、あえて国家公務員法に照らした場合、今の藤井氏の活動は問題なのかどうか?を検証してみたいと思います。「今はセーフだが昔はNGだった」のか「今も昔も問題なかった」のかを確認しておくことは藤井氏の活動の本質を理解する上で必要だと思うからです。

 藤井氏が行った活動はごく簡単にいうと、
大学内における職務とは関係なく(もちろん勤務時間外に)大阪市住民投票にかけようとしている公共政策(案)に対し、各種メディアや政治団体の集会等を利用して批判活動を継続して行っている
というものです。このとき藤井氏が国家公務員であったとすると、同氏には国家公務員法及び人事院規則が適用されます。「公務員はたとえ勤務時間外であっても、政治的な目的で政治的行為を行ってはならない」というのが鉄則ですので、勤務時間外だからといって残念ながら門前払いはできず、一応の適用性検討は必要になってきます。

 さて人事院規則において藤井氏の活動が政治的行為として引っかかりそうな条文は、
集会などの場所で公に政治的目的を有する意見を述べたり――政治的目的を有する文書などを著作したりすること
ですが、注意すべきことは「政治的目的」を伴わない行為は対象とはならないことです。政治的目的も規則において具体的に規定されており、藤井氏の場合、
(1) 「『公選職』をえらぶ選挙で特定の人を支持または反対する目的」があるかどうか――
あるいは
(2)「特定の政党(OR政治団体)を支持または反対する」目的があるかどうか――
が焦点になります。
 (1)については現在及び近い将来まで公選職の選挙は催されていませんから論外です。
 (2)については若干検討の余地はあります。藤井氏は現在のところ言論活動のなかで「政党」に対する支持・不支持に関するいかなる意思表明もしていませんが、ある政治団体すなわち自民党の集会で複数回講演を行ったのは事実です。この行為を含めた一連の言論活動の目的が、「維新の党に反対し自民党を支持すること」であれば、それは立派な政治的目的と見なされ国家公務員法違反となるでしょう。懲戒処分や罰則(3年以下の懲役または100万円以下の罰金)を受けることになります。
 しかし藤井氏の言論内容を見れば一目瞭然ですが、政党や特定団体に対する礼賛や否定といった政治的な評価は何ひとつ見当たりません。これは実際に読んだり聞いたりした人なら疑いようのない事実です。同氏の視線は常に大阪都構想という具体的な「政策案」に注がれており、その意味において、彼の言論活動の唯一の目的は
大阪都構想という政策案が公共の利益に資するかどうか――について公共政策の専門家としての見解を広く一般に流布すること
であると判断せざるを得ません。結果的にそれが自民党を利し維新の党に政治的不利益を与えることになったとしても藤井氏の活動目的からすればどうでもいいことでしょう。やはり(2)についても成立性は低いといわざるを得ません。

 もうひとつ注意しなければならない法律があります。5月17日の住民投票は「大都市地域における特別区の設置に関する法律(平成25年制定)」に準拠して行われることになっていますが、そのなかで投票の実施にあたっては「公職選挙法」の一部を準用することが謳われています。そこに次の条文があります。
国家及び地方公務員はその地位を利用して投票活動をすることができない
 地位を利用して――という部分が味噌です。この条文違反で摘発された公務員は過去にたくさんいて、『国家公務員と仮定された藤井氏』としてはもっとも気をつけなければいけないところです。具体例をいいますと、たとえば藤井氏が大阪市在住の教え子に対し「反対票を入れてくれたら私の講義は合格にしてあげる」などの行為です。これについては他人様の内心や背後の行動まで推し量ることはできませんので何ともいえませんが、動画やテレビで藤井氏のお人柄をお見受けする限り無縁の条文という気がします。
 ただしこの条文に関連して時々おかしなことを言う人がいます。「肩書」付きで講演やメディア出演をすることは「地位を利用した行為」に当たるという指摘です。よくある外形標準説(意味は民法の入門書などをご覧ください。)に基づく主張ですね。ごく最近では橋下市長が藤井氏の活動について類似のことを講演で発言していますが、さすがにこれは拡大解釈であることはご自分でもわかっておられると思います。この主張が正しいとすると巷に数多ある講演会のレジュメから演者の肩書きがすべて消え去り、開催された会合は正体不明の謎の人物たちが語り合う秘密集会のようになってしまいます。肩書きのついた演者による講演については、
単に慣例によって肩書きを使用することや純粋に個人的なものは地位利用による選挙運動には該当しない
というのが国などの一致した考え方となっています(その旨はっきりと書かれたwebページはいくつか発見できましたが、愛知県のHPが一番分かり易いと思います)。

 頭の体操は以上です。つまり藤井氏が国家公務員であると仮定しても、その言論活動は国家公務員法・人事規則及び公職選挙法に抵触するものではない、というのが結論で、「今も昔も問題のない」健全な言論活動であるといえます。なお藤井氏は現内閣における内閣官房参与としての顔も持っていますが、参与は国家公務員の政治的行為に関する条文の適用除外とされていますので何の問題もありません。
 
 さて橋下市長は「中立偽装」していると批判していますが、この点はとても誤解を生みやすい表現ではないかと懸念しています。なぜなら「政党に対して中立」と「政策に対して中立」というのはかなり違った話になるからですが、テレビなどを聞き流している人はそれほど深くは考えないからです。「政党中立」ならば、どこの政党も特段支持していないという意味になって分かり易いのですが、「政策中立」というのは意味不明であまり聞いたことがありません。おそらく、条件付きで賛成あるいは反対という人か、政策自体がよく理解できない人か、そもそも関心のない人か――そんな多様な人をひっくるめて「政策中立」と定義するしかないでしょう。藤井氏がサイトにおいて「中立を公言した」とする市長の言葉は事実でないとしていますが、それはそうでしょう。なぜなら藤井氏は明確に「政策反対」だからです。同氏は、「7つの事実」は単なる事実の紹介であり、都構想という政策に対する賛成か反対かを示した記事ではないという(当たり前の)ことを言ったにすぎないのですが、橋下市長がそれを勝手に「都構想という政策に中立」と決め付けてしまった旨主張しています。

中立といいながら藤井氏は反都構想の政治活動をやっており、まさに中立偽装だ
 この市長の言葉に対して藤井氏が返答するとすれば次のようになるでしょう。


政策中立などとどこでも言っておらず私は明確に政策反対である。市長は勝手に中立を公言したと誤解あるいは曲解したにもかかわらず私に落ち度があると決め付け、『偽装』などという言葉を用い私の名誉を著しく毀損しており甚だ遺憾である。なお私の言論活動は仮に私の身分が国家公務員のままであったとしても、政治的目的(特定の政党の支持など)で行っているのではないため政治活動という指摘すら間違っている

 市長の論点はさらに変わっていきます。(しつこいようですが「7つの事実」に対する維新の党の回答はどうなっているのでしょうか?)(黒猫翁) 

藤井聡氏に対する維新の党の対応ぶりを分析しました(2)

※ 事実関係(数字など含む)に若干不正確なところがあったため少しだけ修正しました(3/16)

 藤井京大教授が「7つの事実」を公表して以来、維新の党――「大阪市長」とこれまで書いてきましたが各方面への抗議文書の発信者名が「大阪維新の会」から「維新の党」に変わってきましたので、今後はこの固有名詞も使います――は論理的な回答を一切打ち出さず、ひたすら論点を逸らし続けています。今回は維新の党が勝手に設定した「論点」が正当な主張なのかどうか検証してみたいと思います。

 

◆「藤井氏のヘドロ発言は公選職である大阪市長かつ政党代表に対する人格攻撃であって許しがたい」
 これについては記者会見でも何度も発言していましたが、2月6日付で京都大学の山極総長宛てに出した「大学の見解を問う文書」がわかりやすいです。要約すると「大学教授が政治家を厳しく批判してもいいが、公選職である市長に対する藤井氏のヘドロ発言はその範疇に入っていない。京大としてしかるべき対応をしない場合は国会の場で追及させてもらう。国立大学は国民の税金である交付金を530億円もらって運営していることを肝に銘じよ」――という文書です。
 まず変だなと思うのはヘドロ発言が不適切であるとした理由が付されていないことです。根拠なしに何でも断定できるのなら議論で勝てない相手は存在しないでしょう。あるいは「公選職」に対する批判には一定の限度があるとでもいいたいのでしょうか? 「公選職」というのは選挙で当選したことで得た職業のことで首長や議員全体を指しますが、彼らがそんな特権を持つとする条文はどこにもありません。中華人民共和国なら話は別ですがここは日本です。
 翻って藤井氏の主張を見ると、同氏がなぜ「ヘドロ的」という表現を用いたか、ご自身のサイトで実に明確に説明されています。

なぜ私、藤井聡は『橋下徹』という一政治家に対して、ヘドロチックという徹底批判を『2年以上昔』に展開したのか。|藤井 聡

 藤井氏の説明は要するに、そもそも橋下市長が過去の著作のなかで「政治家を志すということは権力欲・名誉欲の最高峰である」と主張していたことを挙げ「ヘドロ的」というのはこうした主張に対する風刺的表現である――というものです。根拠がはっきりしていて普通の感覚として納得できる理由です。一般常識を疑われるような考えを表明している政治家に対して真正面から批判することは、(維新の党の文書でも書かれているように)十分正当な行為の範囲内であり、「不合理な人格攻撃」という指摘は当たらないでしょう。維新側が藤井氏の見解に対抗するためには過去の著述の記載内容を前提とした論理的な反証が必要で、それができなければ彼らの主張は根拠のないデマゴーグといわれても仕方がありません。


 ちなみにひとつ指摘しておかなければならないが橋下市長の罵詈雑言の件です。市長は公開の場で、学校教育の業に携わる藤井氏のことを「バカな学者」といい「小ちんぴら」と表現したのは否定しようのない事実であり、新聞テレビが大々的に報道したことによって不特定多数の人間に広範に流布されました。これは色んな意味で強烈な人格否定の言葉であり風刺描写だったなどという言い訳はまず認められないでしょう(名誉毀損罪が成立するかもしれません)。こうした発言は「公選職」に携わる人間だから許されるということはなく、道義的にはむしろ逆により強く糾弾されるべきかと思います。少なくとも藤井氏の「ヘドロ的」という表現を問題にするのであれば、自らの発言についても何故こう表現したのか?――明確な根拠を示した上での説明が必要です。これは、どっちもどっちだね・・・という矮小な仲裁話ではなく非はあきらかに橋下市長にあると思います。にもかかわらず「人格攻撃」をしている人間が「人格攻撃」をされたと抗議する姿は、どこか韓国の政治団体と似ていて、ウーンと首を傾げてしまいます。維新の党はもっと一般国民の視線に注意を払う謙虚さが必要ではないでしょうか。

 次に、京大は国立大学で税金から530億円もらっていることを肝に銘じろ・・・というくだりですが、維新の党国会議員は税金から、歳費(給料)を月130万円、文書通信交通費が月100万円、立法事務費が月65万円、期末手当で年635万円と、年間4200万円もらっており、政党助成金約4500万円/人(=日本平均)と合わせると一人当たり年間8700万円も税金を受け取っている存在です。超特権階級ですね(笑)。党全体としての税金依存度は2013年分の政治資金収支報告書で計算すると7割弱程度です。一方京都大学運営費交付金は560億円ありますが教授職は1000人以上いますので一人当たりの交付金は単純計算で年間5~6千万円になります(これを教授の下に設けられた研究室の人件費や運営費に活用します。大学全体の組織運営費は相当大きいはずですが保守的にゼロとしました)。京大全体の税金依存度は4割程度です。国立大学というのは授業料などを低く設定している分交付金をたくさんもらっていることは事実ですが、大学側からすると、5割以上多額の税金を受け取り、運営費を相当割合税金に頼っている政党から「君らは税金もらっている身であることを肝に銘じろ」といわれてもピンとこないでしょう。やはり足元が見えていないような気がします。

 最後に京大の山極総長からの返答(2/18付)は次のようなものでした。

                ****

藤井教授の発言は、本学の職務行為として行われたものではなく、職務外に個人の表現活動として行われたものであり、本学としての見解を表明することは、差し控えたい

                ****

 少し解説が必要かもしれません。

 国立大学の教職員は昔は国家公務員であり、国家公務員法人事院規則が適用され、その行動には相当の制限がかけられてきました。しかし財政削減の流れで2004年に法人化され、教職員はもはや国家公務員ではなくなったことから、その労働条件や服務規定については各大学法人があらたに定めた就業規則に準拠することになっています。要するに普通の民間企業と同じになったということですね。もちろん教育機関ですから「教育基本法」が厳格に適用され、その法律の限りにおいては国立大学法人は昔どおりの「国」とみなされて同じ役割を果たす義務が存続されています。いわゆる“みなし公務員”とされる部分であり、学校法人(いわゆる私立学校)よりも義務的な条文が多くなっています。
 さて大学の当局が教職員の服務管理を行うときにバイブルとなるのは、一般企業と同様、就業規則あるいは服務規程です。これらに書かれた条文に抵触しているかどうかを判断することが大学当局の役割であって、たとえば大学の学長が独善的な考えでもって勝手に職員を処分することはできません。今回の件で京大の山極総長がチェックしたのは次の2つの条文ではないかと思われます。

 (1)教職員は勤務時間中職務に専念し、職務とは関係のない行為をしてはならない
(2)職場の内外を問わず、大学の信用を傷つけ、その利益を害し、又は教職員全体の不名誉となるような行為をしてはならない

  さて藤井氏の活動を考えると、まず勤務時間のことですから(1)には抵触しないことはあきらかです。勤務時間外における同氏の行為は「個人」の自由であって大学当局が管理すべきものではない――これは至極真っ当な判断で誰も否定することはできません。ただし(2)の条文で、職場の内外を問わず、勤務時間外であっても(←これは就業規則の下の倫理規程に書かれています)大学の信用を傷つける行為をしてはならないとされています。いわゆる「信用失墜行為」というもので、よく耳にするのが飲酒運転による人身事故でしょう。京大当局は(2)についても問題なしと結論しましたが、そもそも個人の言論活動のなかで比喩として用いた表現が教員の信用失墜行為として取り上げられた事例はなさそうです。なお信用失墜行為というのは橋下市長の得意分野で、自らが率いる(言うことをきかない)大阪市職員にそれが適用されないかどうか執拗なほど事上げしているのは周知の事実です。


 実をいうと信用失墜行為に関しては本来は大阪市長本人のほうが引っかかる可能性が高いのをご存じでしょうか。上述した「バカ学者」「こチンピラ」発言をはじめとした「反復しての侮辱(あるいは名誉毀損の可能性のある)行為」です。反復しての行為は法律では非常に重要視されます。たとえば自分の家の前に毎日ちょこっと自家用車をとめていただけで車庫法に抵触して通報されるのが典型的な例ですね(=反復しての車庫代わり駐車)。また、ここ一連の市長の記者会見やそれを契機とした多くの支持者による悪意のある書き込みによって藤井氏という個人の社会的評判が著しく毀棄損されている――こうした状態を考えると、大阪市長及び維新の会の行為は総合的に見て一個人に対する不法行為になっている恐れが高く、たとえ結果的に不法性が成立しなくても大阪市に対する看過できない信用失墜行為になり得ると思われます。たとえば横須賀市には市長及び副市長の服務(倫理)規程が定められており、信用失墜行為の禁止が明記されています。大阪市でもこれがあれば服務違反で懲戒の対象となるでしょう。ところが同市にはありません。

 多くの地方自治体では「政治倫理条例」が定められていて市長の収入の公開などが義務付けられていますが、その中に今回の件に適用されそうな政治倫理基準が盛り込まれているところがあります。

市長及び議員は、市民全体の奉仕者として品位と名誉を損なう行為をしないこと

という条文です。大阪府内の市では東大阪市和泉市がそうです。このルールのある自治体の長は、これに抵触すると条例違反となりますから「品位と名誉を損なう行為」に対して非常に敏感になります。これがあれば当然テレビの記者会見などの発言には当然気を遣うでしょう。ところが大阪市には上述の信用失墜行為の規定と同様、同種の条文はまったくありません。橋下市長の姿勢が常に強硬なのはこれが大きな理由なのかもしれません。
 もちろん「自治体の長の品位の所持」とか「住民に対する直接的な説明責任(対住民直接答責性)」などは欧米では当たり前のことで日本でも法制化の流れにありますから、大阪市長も当然気にしているとは思いますが、少なくとも今の状況では市長のやりたい放題なのかもしれせん。法律でその言動がガンジガラメにされ、さらに公選の特別職市長にあら捜しをされている大阪市の職員たちのことを考えると、「気に入らなかったら選挙で落とせばいいじゃないですか?」と嘯く市長の姿は民主主義としていかがなものかと思います。

 

◆「文句があるなら公開討論をしようではないか。それを受けないのは藤井氏に自信がないからで言論の内容がデタラメだからだ」
 少し前の記事にも関連することを書いたと記憶していますが、若い人に一番支持されやすい主張です。喧嘩を売られたら買わないのは自分に自信がないからだ――年齢が下がるほどこのような考えにとらわれがちですが、大人でこんなことを本気で思っている人は滅多にいないと思います。社会人の世界では売られた喧嘩を買った人は売った人同様負けるのが通常です。ほぼ100%両成敗にされてしまうからですね。藤井氏が普通のサラリーマンであったとしてもこうした煽りにおいそれと乗ることはできません。さらに信用失墜行為の問題もあります。なぜか市長がこれで懲戒されたことはほとんどありませんが、普通の企業や大学では結構実例があることだからです(大半は依頼退職となって表沙汰にはなりません)。特に「市長VS在特会」のような流れに故意にもっていかれ、大学の名誉が傷つけられるような事態になれば藤井氏としては後々不利益を蒙る可能性があります。
 「議論」という言葉は日本社会でもよく使われます。ですが本当の意味で議論しているのかと問われると必ずしも建設的な議論になっていない場合がほとんどだと思います。今はどうか知りませんが昔(30年以上前?)はアメリカなどでディスカッション・ゲームみたいな催し物がたまにテレビで中継されていました。司会者から本当にくだらない(笑)テーマが設定され、とにかく相手を言い負かせば勝ちというゲームですが、そこには日本人にはとても信じられないような卑劣極まりないテクニックが山ほどあって、それらを駆使して相手チームを罠に落としこみ沈黙に追い込まないと勝てません。こんな「お笑いディスカッション」を橋下市長が本気で望んでいるとしたら民意を反映していると胸を張る公選職の名前が泣こうというものです。
 大事なことは「建設的」かどうかです。建設というのはお互いが協力しないと成り立ちませんが、どちらか一方だけでも協力的でなければ最終的な成果である「建設物」を得ることは絶対にできません。ということはどういうことか?というと、最低限「怒っている相手」とは絶対に「建設的な議論」はできないということです。怒りを有する相手からは協力的な関係は生まれませんから当然のことだと思います。翻って維新の会の対応はどうかといえば、記者会見のみならず文書においても非常に攻撃的な書き方をしています。つまり「怒って」いるか、あるいは怒っているフリをしています。こういった相手とは建設的な議論は不可能とするのは自然な判断だと思います。

 逆にこれが可能な環境が整えば議論慣れしている藤井氏はおそらく公開討論でも何でも受けるかもしれません。もちろんそうなれば知識と論理とその用い方が自らの武器になりますからそれこそ頭脳と頭脳の純粋な戦いになります。「論点逸らし」などのくだらないゲーテクを使おうとした瞬間にレフェリーから指摘され沈黙を余儀なくされるでしょう。藤井氏の“どうしてもやりたいのなら相手が冷静になったとき――そして時間無制限でやりたい”という発言にはこうした底意があるのだと思います。こんなガチな頭脳勝負を前提としたとき果たして大阪市長は公開討論を受けることができるでしょうか? (黒猫翁)

 

【お知らせ】次回は最近市長が指摘している「中立」について書きます。

藤井聡氏に対する維新の党の対応ぶりを分析しました(1)

 当初は藤井京大教授と橋下大阪市長との建設的な議論の応酬をじっくりと考えようと思って書き出したシリーズ記事でしたが、藤井氏がインターネットで「7つの事実」を公表して以来、市長率いる「大阪維新の会」や「維新の党」という政治団体がどんどんおかしな方向へと走り出してしまいました。

 これまでの流れを簡単におさらいしてみましょう(順序不同や細部を端折っている点はご容赦ください)。

 まず、「7つの事実」公表に対して、市長側は具体的な説明なり回答をするでもなく、2年以上前に藤井氏が出演した対談番組の動画

http://satoshi-fujii.com/150208-2/

をほじくり出し「これは市長に対する人格攻撃だ」と批判しました。
 そのあとは、名誉棄損ともいえる公開の場での悪口雑言、そしていきなり大阪維新の会が「公開討論」を申し入れ藤井氏がこれに応じないと見るや橋下市長は同氏が「逃げた」と決め付け勝手に勝利宣言?を出しました(「もう私自身が相手にする必要もない等々」)。ネット上ではまるで突撃命令でも出たかのように匿名の維新支持者たちが一斉に騒ぎ立て、目を覆いたくなるような罵詈雑言の嵐が吹き荒れたのは記憶に新しいところです。
 しばらくすると今度は「マスコミや国立大学は中立であるべきである」という見解を新たに発信し始め、維新の党名義で藤井氏の活動に関する見解を問う文書を京大総長に送り付け、適切な対応を取らなければ国会で取り上げると書いたり、テレビメディアに対しては藤井氏の起用などに対して報道姿勢に“留意”を求めたり、最近では藤井氏が中立であると主張するのであれば自民党だけでなく維新の党のタウンミーティングにも来いと前述のお二人に再び文書を送り付けています。


 さてここまで書いてきて、マスコミやネット市民、あるいは本件をフォローしてきているすべての方々に対してあえてひとつ問いかけをしたいのですが、

それはそうと「7つの事実」に対する維新側からの回答はどうなってしまったのでしょうか?

 「あぁ忘れていました」という方は、(すでに票読みを始めて懸念を募らせている)維新が苦肉の策で繰り出した「論点逸らし」の下策にまんまと嵌ってしまっているのではないでしょうか。

 住民投票を控えた大阪市有権者が本当に知りたいのは、藤井氏のヘドロ発言が正当化できるかどうか――とか藤井氏が公開討論を受けるかどうか――とか藤井氏の活動が中立かどうか――とかいう呑気な話ではありません。市民が一票を投じるか否かは、たまたま藤井氏という学者が述べている学問的な内容が事実かどうか?という点にかかっているのだと思います。維新の会は顔を真っ赤にしてひたすら「論点逸らし」に狂奔し、「7つの事実」に対する論理的な反論を完全に怠っていますが、これから5月投票までの期間、藤井氏の相変わらずマイペースな情報発信力を考えると最後まで隠し通せるとはちょっと考えられません。そろそろ腰を落ち着けたほうがいいのではないでしょうか。(黒猫翁)

【お知らせ】次回は維新の会が「論点逸らし」の目的で指摘している藤井氏の“落ち度”について解説してみたいと思います。7つの事実の議論が実質的に進めばどうでもいい話ですが、公党が行ってしまった行為については評価が必要だと思いました。

【経済】第一の矢「異次元の量的緩和」はホントに効いているのでしょうか?(2)

 日本の場合はどうでしょうか。
 まずはこの前の記事にアップした米・英データと同じ出典からご紹介しましょう。

 

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 前回と同様、赤い線がMBで、青がマネーストック、緑が金融機関の貸出です。
 2001年から2006年にかけて日銀(当時の総裁は速水氏~福井氏)がMBを増大させているのが分かります。これはITバブル崩壊に対処するために行った量的緩和で、5年間で44兆円のお金を日銀当座預金に積み上げました。その後は予定通り出口戦略を進め、そそくさと店じまいしています。
 マネーストックはというと・・・これがなんとアングロサクソン系の国とは異なり、わずかづつではありますが明らかに増加傾向が見られます。理由は分析しないと分かりませんが、国民性や経済構造の違いに関係しているのかもしれません。ただしやはり2001年からのミニ緩和とは何の関係性も見出せません。マネーストックは1997年の土地バブル崩壊後、マイペースで漸増を続けていくのみで、政府の金融政策にはまるでソッポを向いているかのような振る舞いです。金融機関の貸出も同様、ミニ緩和にはまるっきり反応していません。もっともこちらのほうは逆に少しずつ減少していて目も当てられませんね。
 だからこのとき行ったミニ緩和は前回ご紹介した米・英の例と同じく信用創造の活性化には効果がなかったといわざるを得ません。ただ、(本筋とは無関係ですが)出口戦略はうまくいったようです。この時に日銀が購入した国債は3か月とかの短期物が中心だったのですぐに期落ちして日銀内のバランスシートに影響を及ぼすことはありませんでした。(それがいいことなのか、どうでもいいことなのかは別ですよw)

 

2012年以降の最新状況
 ところでこのグラフは2011年までしかありません。このあと安倍政権が誕生し2013年度からは鳴り物入りで異次元緩和が始まったわけですから、この期間の動きが大切です。それで調べてみた結果がこれです。なお、マネーストックは過去との整合性を重視してM2としました。(マネーストックには計算の対象とする金融機関によってM1~3くらいまで分かれていますが、昔よく使用されていたM2+CDというのが現在のM2に一番近いです。)

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  赤のMBは2013年から爆発的に上昇しています(2014年12月までで120兆円増加)。日銀当座預金の底が抜けそうな勢いですね。問題は青のマネーストックです。
 一応増加はしていますが2011年以前の傾向とまったく変わっていません。昨年10月に黒田日銀総裁が「マネーストックの増加は極めて穏やか」と発言しましたが、それだけでは誤解を生むので、さらに一言“異次元の量的緩和の前後でマネーストックの増加割合はほとんど変わっていません”と付け加えるべきではなかったかと思います。
 では、「金融機関の貸出」はどうでしょうか。2011年までは明確に減少していましたが、2012年以降はどんな変化が見られるか――それがこれです。

 

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 なんと上がっているではありませんか。黒線が民間金融機関の貸出残高の増加率のトレンドですが、ぐんぐん伸びているのが見てとれます。いよいよ黒田バズーカの効果が出てきたのかな?と一瞬喜んでしまいました。
 ところがよく見ると前年比貸出がプラスになったのは2011年頃からで、異次元緩和の開始は2013年ですから、ほとんど関連はありません(しかも2014年には貸出は減少しています)。
 さらに詳しく見ていくと、貸出が増えているといっても必ずしも理想的な状況でないことがわかります。すなわち、民間金融機関の貸出は「民間非金融法人(いわゆる民間企業)向け」と「家計向け(住宅ローン」と合わせて7割を占めていて、これをどんどん増やしていくのが信用創造の源になるはずですが、異次元緩和が開始されたにもかからわず月に1~2%程度しか伸びていません。住宅の需要増(駆け込み需要)も一時的で限定的な効果しかありませんでした。一方で海外向けの貸出がなんと月に20~30%も増えており、貸出総残高における海外向け貸出の構成比率が爆発的に伸びている状況です。これはつまり、


 これまで日銀が積み上げてきた莫大な額の当座預金のお金が家計や国内企業にはほとんど貸し出されず、代わりに外国企業にどんどん流出している。


という構図になります。日銀はまるで外国企業を潤わせるためにせっせとお金を刷っているようなもので一体何をしているのか分かりません。

 

MBを増やすとマネーストックが増えるか?
 MB(マネタリーベース)を増やすとマネーストックが増えるかどうか――巷ではよくこの手の議論がされています。大きな傾向でいうと、これまでご紹介したように「MBとマネーストックはほとんど相関がない」という答えにならざるを得ません。しかしミクロな視点で見ると厳密には違っています。下のグラフをご覧ください。

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 これはMBとマネーストックの増加率(前年比)の推移を表したものです。これを見ると、二つの指標は意外と連関していることが分かります。MBを増やすことによってマネーストックを増やす、という量的緩和の方策は理屈の上では正しいのだと思います。ただしグラフのスケールが異なっている点に気をつけなければなりません。たとえば2014年時点でMBは前年比50%アップ(右目盛)させており、マネーストックもそれに応じる形で増加していますが前年比で高々3%程度(左目盛)に過ぎません。単純にいえばMB1割アップに対してマネーストックは0.6%アップした、という非常に感度の低い関係です。これを「厳密には連関がある」と見るのか「実質的には連関がない」と見るのか――人それぞれでしょうが、日本全体のマクロの話をしている時に数学的な厳密性を持ちだしてきても全体像は掴めないのではないかと考えます。
 「たとえ0.6%と効果が小さくてもマネーストックは確実にプラスされていくのだからもっと長い目で見ればいいではないか?」という意見もあります。ですが、日本、米国、英国の例で見てきたように、マネーストックのバルクの傾向は量的緩和とはほとんど関係がない部分に支配されているとしか考えられませんし、日本の場合、増えたマネーは海外へ流出してしまっているのが現状です。さらにMBが膨れ上がると出口戦略が急速に難しくなるのも事実ですので、このまま時が経過すればするほど経済構造に歪が出てくる可能性が高いのではないでしょうか。ちなみにインフレ期にはMB1割アップに対してマネーストックも1割近くアップしていたという過去のデータがあります。もちろん今はデフレですのでそんな贅沢な数字は適用はできません。(まあそもそもインフレ期に量的緩和なんて火に油ですから絶対にしてはいけません(笑))。

 では量的緩和にはメリットがないのか、というと、いやいやそうではありません――という話を次回の記事でお話したいと思います。(黒猫翁)

【経済】第一の矢「異次元の量的緩和」はホントに効いているのでしょうか?(1)

 ひとつの国には大体中央銀行というのがあって色んなオペレーションをしてその国の経済をコントロールしています。そのなかに「買いオペ」というのがあります。買いオペというのは一般の金融機関が持っている国債を日銀が買い取ることで、その対価の支払にあたって中央銀行は、支払額相当の貨幣を「増刷」し(実際はPC上で帳簿上の操作を行うだけかと思います),その額を相手の金融機関が中央銀行内に持っている当座預金にザっと流し込みます。
 上で述べた一連の操作をインフレ目標値が満たされるまである意味無制限に続けることを日本では量的緩和と呼んでいて、これにより金融機関が中央銀行内に持っている当座預金の残高はぐんぐん膨張していきます。日本では中央銀行である日銀がアベノミクス政策の第一の矢として2013年度から量的緩和に突入しました。その結果、2014年12月までにマネタリーベース(MB)がなんと120兆円も増えました。(マネタリーベースというのは市中を出回っている現金と日銀当座預金残高を足したお金の数量です。)
 日銀当座預金は常に法定準備額(預金者保護の観点から設けられている制度)以上の残高を維持することが必要ですが、これを超えてあまりにも積みあがってくると死に金になってしまいますので、通常であれば金融機関は膨れ上がったお金を何らかの方法で運用しようという気持ちになります。そんなときに「お金を貸してください」という企業なり個人が出てくれば(日銀に売却した)国債よりちょっとだけ高い金利でドンドン貸そうとするでしょう。これによって日銀が増刷したマネーは実体経済の世界にすべりこんでいきます。こうなれば日銀もマネーを銀行に流し込んだ甲斐があったし、銀行もちょっとだけ儲けられて有難い、また企業や個人も貸してもらえて助かりましたという――近江商人の「三方良し」という状況が生まれるわけです。
 金融機関による「貸出」が日本全体で行われるようになれば、貸し出されたお金が信用創造という仕組みによってどんどん増幅していき(つまり預金口座が新たにたくさん作られ預金の総残高が増えるということです。)、果てはGDP(国内総生産)を上げ、国の税収が増加することが期待されます。これが量的緩和の理想的な姿であり最終目標とする絵姿です。


 こうした状況がきちんと進捗しているかどうかを図るバロメータとして何があるかというと、直接的にはもちろん「民間金融機関の貸出量」で、一番分かり易いですね。でも「マネーストック」という指標もよく使われます。マネーストックとは大まかにいって市中を出回っている現金と金融機関の預金総額を足した値です。日銀当座預金に積み上げたお金(MB増額分と理解できます。)が100%実体経済に流れ込み信用創造によって金融機関の預金総額が増幅していけば、マネーストックはMBの増額分以上の増加を示すことになります。1980年代はインフレ期に当たりますが、そのときの統計データを見てみると、MBの増加に対してマネーストックはかなり感度良く増大していったことは否定しようのない事実です。


 理屈としてはとても効果を発揮しそうな「量的緩和」――この正否を判断するにはまずは外国の例を見るべきだと思います。量的緩和を行った国というとやはり思い浮かべるのが米国、そして英国、いわゆるアングロサクソン系の国ですね。細かい話は抜きにして、「結果」がどうなったのかを見てみましょう。下のグラフです。

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 赤い線がMBで青(黒っぽい線)がマネーストック、緑が金融機関の貸出です。

 両国ともリーマンショック以降、物凄いペースで量的緩和を行いました。緩和前のマネタリーベースと比べると、英国で2.5倍、米国に至ってはなんと3倍です(笑)。これだけマネーを中央銀行の当座預金にジャブジャブ落とし込んだのですから、さぞや金融機関の貸出が増えて、マネーストックも増えたに違いない・・・と思うのが普通です。ところがどっこい、グラフを見れば分かりますが、青のマネーストックは全然増えていません。緑の金融機関の貸出に至ってはむしろ減ってしまっています。このデータをごくごく普通に結論付けると、


少なくとも米国、英国において量的緩和政策は国内のマネーストックと金融機関の貸出量を上向きにすることができなかった


ということです。これは「事実」ですから如何なる人であっても否定することはできません。2012年以降のデータはグラフにありませんが調べてみるとやはり目をみはるような上向きの変化は認められません。

 米国は量的緩和を終えて、今度は金利に目を向ける政策に入っているようですが、中央銀行量的緩和によって抱えることになった膨大な量の国債をどうするのでしょうか。中央銀行は国の一部なんだから別にバランスシートを気にする必要もなく国債なんて期落ちを待ってりゃいいよという考え方もあってある意味真実だとは思いますが、国民やG7に対する説明責任もあるしソブリン格付けなどの話もありますから色々と面倒ですね。米英の経済についてはまた別の記事でご紹介したいと思います。
 次回は日本の状況について紹介します。(黒猫翁)

橋下市長はなぜ藤井氏への反論書面を出さないのか?理由はあります

最近、今回の橋下市長との話題に刺激を受けてそのお相手である藤井聡氏の業績や言論の内容について調べているのですが、そのなかで早稲田大学原田泰(ゆたか)氏書面論争が行われていました。

 原田氏は「リフレ派」を代表する経済学者で、ついこの前、日銀の審議委員になった方ですが、公共事業の効果をとことん否定している学者で、藤井氏がアベノミクスの第一と第二の矢の組み合わせでデフレ脱却できるという学説を提唱しているのに対し、第二の矢である公共投資は少なくとも経済的には不要の施策であり、デフレ脱却の主役は第一の矢である金融政策、とりわけ量的緩和であるというのが原田氏の見解です。国土強靭化構想を国の施策に昇華させ公共事業を今後強力に推進しようとしている藤井氏にとっては白黒をはっきりさせなければならない論者の代表的存在といえますので、あえて書面論争に踏み切ったのだと思います。一連のやり取りは下記「月刊VOICE」の記事(時系列)に詳しいので、経済問題に興味のある方は是非ご覧ください。(本件に関係する記事は別の機会にご紹介したいと思います。)

[藤井氏]

[安倍景気の行方] ついに暴かれたエコノミストの「虚偽」〔1〕 | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所

[安倍景気の行方] ついに暴かれたエコノミストの「虚偽」〔2〕 | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所

[原田氏]

[アベノミクス第二の矢]ついに暴かれた公共事業の効果〔1〕 | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所

[アベノミクス第二の矢]ついに暴かれた公共事業の効果〔2〕 | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所

[藤井氏]

【藤井聡】原田泰氏の反論を「検証」しました。 | 三橋貴明の「新」日本経済新聞

[藤井氏]

アベノミクス「第二の矢」でデフレ不況を打ち抜け | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所

[原田氏]

アベノミクス「第一の矢」でデフレ不況を打ち抜け | PHPビジネスオンライン 衆知|PHP研究所

 素晴らしい論争だと思います。如何せん学者同士の議論ですから当然専門的で理解しづらい部分もありますが、丹念に読めば言わんとしていることは分かりますので読者なりにどちらの見解が正しいか判断することができます。

橋下市長もこれをやればいいのです。とりわけ論点ははっきりしていますし(「7つの事実」のみ)、難しい専門知識もほとんど要らず、別に橋下市長が学者じゃなくてもできるはずです。またあえて論争と銘打つのもおかしなくらい単純な争点ですから、質問に対する回答という形をとっても構わないでしょう。まっとうな大阪市民であれば不毛な罵り合いの公開討論で両者リングアウト負けの結末を見せられるよりもはるかに有益な対応だと思います。

 

 こんな優れた方法があるのにもかかわらず一切乗ろうとせず、代わりに罵倒やこき下ろしの言葉を公開の記者会見で口にし(名誉棄損といっても過言ではありません。)、大阪維新の党名で相手の上司に意見書を送り付け、公開討論に応じなければ国会で維新の党の議員に本件を取り上げさせるなどと強弁する。これは自治体の長というよりそもそも国民・県民・市民として正しい振る舞いといえるでしょうか。

 さらにいうとネット上では、維新の党や橋下氏個人の支持者らしき一部の人から「公開討論から逃げるな」という一点張りのコメントが大量に流され、それに刺激された一部のマスコミが週刊誌のような煽り記事を掲載し、これがさらに匿名のネット住民による人格攻撃をエスカレートさせる・・・といったことが行われているようです。橋下市長が藤井氏の指摘に対する回答を持ち合わせていないとすれば、この状況は非常にありがたいでしょう。なぜなら池の水面をばちゃばちゃさせて水中を泳ぐ鯉の居場所を隠すようなもので、大阪市民に知って欲しくないことから目を背けさせることができるからです。

 また、ネットも含めて大阪市長側の一連の反応は、もう一つ重要な効果をもたらしています。それは「言論」を封じ込める圧力になってしまっていることです。普通の一般人がこれだけ徹底した嫌がらせを受けると社会生活に支障が出てくるのを恐れて口を閉じがちになるのが当然ですから、いくら市長が圧力などかけていないと強弁しても常識的には納得してもらえないでしょう。権力による言論封殺というのはパワーハラスメントと似ていて、加害者が何と言い訳しようと被害者が圧力と感じた時点で成立すると考えられるからです。施政者の言動や品格にうるさいところであれば解職請求(リコール)の声が高まってもおかしくない程の有様ですが、選んでしまったものは仕方ありません。

 それにしても大阪都構想の正味の議論がこれまでほとんど行われてこなかったのはいったい何故なのでしょうか。

 もちろん都構想自体は大阪ローカルの話とされていて直接の利害関係者以外は関心を持たれなかったことが大きいとは思います。ですが、橋下市長が府知事時代から強力に推し進めてきた案件でもありもっと広まっていて然るべきところ、二重行政の解消というキャッチフレーズだけが先行していて、市民や府民にとってのメリットやデメリットの議論が全くといっていいほど深まっていません。これは構想を提案している側の不手際ではないかと考えます。橋下市長はタウンミーティングを何度も開催していて理解は広まっていると発言されていて、私も動画をいくつか拝見しましたが、残念ながらあれは「議論」ではありません。質問者に対してお決まりのQA回答を基に市長が一方的に高いところから演説しているだけでデメリットに関する部分がまったくといっていいほど深掘りされておらず、住民説明会にありがちなアリバイ作りという側面は否定できないでしょう。

 要するに橋下市長が2010年に都構想を打ち出して以来5年ものあいだ、デメリット情報については市長側からまともな説明が一切されておらず(木で鼻を括ったような数行の役所説明はありますよ。)また、別の団体や個人が指摘したデメリット情報についても市長が真正面からスポットライトを当てて議論を深めたことが一度もないのです。そのような情報は大阪市民には行き渡らずネットの片隅で埋もれていき、市長の定例記者会見で耳障りのいい発信情報だけが市民の頭に蓄積されていきます。信じられないでしょうが事実だから困ったものです。
 そして投票まで2か月半に迫った現在ですらその状況は大きく変化していないと思います。むしろ情報を隠そうとする姿勢が露骨になってきたのではないでしょうか。大阪市職員に対する取材応対禁止を求めたことは実に驚くべきことです。さきほど不手際と申し上げましたが、藤井氏に対して回答を出そうとせず、その代わりに同氏に浴びせかけている不快な言動からすると「故意」にそうしていると疑わざるを得ません。中国のような国家と比較すべくもありませんが、橋下市長はもはや中国流の「情報統制」の世界に踏み込んでしまったのではないかと老婆心ながらとても心配しております。
 もっとも藤井氏に関していえばまったく臆することなく、これほどの橋下市長からの嫌がらせに対し発言を控えるどころか、なんと専門のサイトを立ち上げて、以前よりさらに強力な言論活動を展開しておられます(笑)。藤井氏のこの努力によって大阪都構想の問題点を初めて知った大阪市民もどんどん増えているに違いなく、情報提供の観点から素晴らしいことです。逆に市長にとっては藪をつついたらしゃべる大蛇が大暴れし始めたようなものでまったくの大誤算でしょう。


 問題は新聞等のマスコミの対応だと思います。大阪市の定例記者会見の動画をいくつか拝見すると、前日に橋下市長に対する批判的な記事を掲載しようものなら会見で名指しで一方的に罵られたり出入り禁止処分にされたりするのですから如何に海千山千の取材記者といえども筆勢が鈍るというものでしょう。あれは取材を「受ける側」から「する側」に対するパワハラの一種です。許認可権を持つ役人が事業者と応対するときの態度とそっくりで不愉快このうえなく記者の方々にはお気の毒な気持ちもありますが、これを我慢していることは橋下市長の露骨な情報統制にはっきりと加担していることになります。仮にもジャーナリズムを標榜した報道機関としてそんな情けない状態でいいのでしょうか? マスコミがこのまま口をつぐんだままで5月17日を迎え、情報不足が原因で大阪市がとんでもない事態になった場合、大阪のみならず日本全国の世論は今度こそ全マスコミを許さないでしょう。報道各社は横並びで一斉に立ち上がるべきではないかと思います。

 大阪市民にとっては5月の投票日は「得をするか損をするか」の分水嶺です。すべての投票者が大阪都構想(正確には協定書の内容)の功罪を漏れなく知悉した上で正しい投票行動をとるべきと思います。少なくとも「維新の人らが太鼓判押してるからマァ特に損はせんやろ」といった軽い気持ちで投票したら後でとんでもないことになる可能性があることを大阪市民の皆様に心に刻んでいただけますよう祈念しています。(黒猫翁)